それはたしかだ。しかしやはりそれよりも、軽率に結論を下して、あとになって、「ああ、あのときもっと慎重に考えればよかった」そう悔やむことのほうがはるかに多いのである。〈せ色の男のやさしさこそ曲者である雄にでもやさしい男女子高生からまで出会う アプリ で、「どんな男性があらわれて欲しいか」という質問に対して、「やさしい人」そう答えるケスがもっとも多い。どうやら、若い女が男にもっとも望むことは、この「やさしさ」らしい。その点をもっともよく心得ているのはプレイポイたちである。プレイポイは例外なく女に対してやさしい。そして多くの場合、そのやさしさはつけ足しではなくてホンモノのようである。ただそのやさしさが、それによって相手の女と親しみ深い仲になったあとで「責任を持つ」ことにつながるかどうか、それが保証のかぎりではないだけだ。きみにやさしい彼は、かならずきみ以外の女にもやさしいのである。きみがもう彼の恋人になったとする。すると彼は、きみよりも、彼にとって未知の魅力を持っているあたらしい女のほうに対して、よりやさしいのだ。ところが、女たちは、男のそのやさしさが自分にだけ向けられるものと錯覚しがちであ自惚れちゃいけない。る。男のやさしさが、男の本質的なものであると知りながら、その判断を越えて、それは自分の魅力のせいだと自惚れてしまう。ここに悲劇が生じる。それはそれとして、じつは、男のやさしさは、実質的には何の価値もないものだ。これは男女関係にかぎらない。上司と部下の関係についても言える。部下にやさしい上司でも、上に対して力がなければ、部下は不幸である。ぼくは大学一年のとき、麻生太賀吉氏と話をする機会を得た。九州洞海湾を見下ろしながら、麻生氏はぼくの肩に手をかけて、「煙突に丸に太の字の船、あれはみなぼくのところの船だ」「ぼくは会社の労働者諸君にこう言っている。会社に力がなければならない。力がなければきみたちの生活は改善されない。小さなパイをみなで分け合うか、大きなバイを分け合うか、それが重要なんだ」ぼくは、麻生鉱業の労働条件が、他の会社よりも圧倒的にすぐれていることを知っていた。会社に、それだけの力があったからである。麻生氏の声は自信に満ちており、今もそのことばは記憶に残っている。貧しきを憂えず等しからざるを憂える、という有名なことばがある。まさに、人聞社会はその通りである。しかし、これも程度の問題であって、極端に貧しければ、ょうではなんにもならないのである。

やさしい男の冷たい計算やさしい男と知っていて苦労するのがうれしいか。いわゆる「手鍋提げても」というやつで、それでうれしければよろしい。問題は、好ましい男の第一条件に「やさしさ」を挙げるきみたちに、はたしてそれだけの覚悟と忍耐心があるかどうかという点である。結婚して三年も経てば、じつは夫となるべき男の第一条件は「やさしさ」ではないことに、多くの女は気がつく。気がついたときはもう遅いのである。ある程度のやさしさは、たしかに必要条件かも知れない。それを、世間を知らない若い娘は、必要十分条件と考えてしまう。そこが甘いのである。問題はさらにある。表面に出るやさしさを以って判断してはならないという点だ。つまり等しく困窮してしまう一見やさしい男ほど、心のなかでは冷たい計算をしているものであり、いざというときに決定的に冷酷な仕打ちをすることがある。若い女はしばしば、男の小さなやさしさに感激する。重要なのは、荷物を持ってもらうとかいたわりのことばをかけられるとか、こまめに動いてくれるとか、そんなものじゃない。そんなことは、してもらってももらわなくても、きみの人生にたいした影響はない。きみが重大な危機に直面したときに、大きなやさしさできみを抱き上げるかどうかがたいせつであり、そのためにはただやさしいだけではしょうがない。カが必要なのである。どうして多くの若い女たちは、望ましい男の第一条件にこの「力」を挙げないのであるうか。おそらくそれは、これまで親の保護の下にあって世の中のきびしさを知っていないために、「力」の持つ決定的な重要さを認識していないからである。賢明な娘は、やさしい男のそのやさしさにたぷらかされはしない。男のやさしさは、自分の力のなさをカバーするために女に向けられることが多い。そしてそれは娘たちに対してきわめて効来的なのだが、あくまでも一時的なものである。ぼくの知るかぎりでは、女に対してでれでれとやさしい男は、会社ではうだつが上がらずベエベエでいる。だいたい、女の気持ちをあれこれと汲んでそれに上手に適応しようとけんめいになるなど、おろかなことである。何の生産ももたらさない。男ならそんな小さなことに神経を使わずにもっと重要なことに目を向ければよいのだ。ある青年、可愛い恋人を持っていた。すでにふたりは肉体的にも結ぼれていた。青年はその恋人とやがて結婚しようと考えていた。あるとき恋人が、いささかの恨みをこめた男だったのです。

やさしさは冷たい計算の上に成り立っていることを知れ語調で、「あなた、あの人にやさしいのね。このごろあたしに対してあんなにやさしくしてくれたことがないわ」それに対して、青年はこともなげに答えたのである。「バカ。あの人は他人だからやさしくしなきゃいかんのだ。おれの分身みたいなおまえに対して、あんなに努める必要はない。おまえに対してはおれは自然に振舞うだけだ」また、あるプレイポlイがぼくに告白したことがあある。「途中で、女があんまりわがままでひとりよがりだから、こんちきしよう、と思うことがありますよ。しかし、そういうとき、ぼくはじっとこらえて自分にもうすこしだ。今ここで投げたら、これまでの努力が水の泡になってしまう。もうすこしがまんしてごきげんをとれば、こいつをそノに出来る。モノにしたら、もう用はない。それまでの辛抱だ自分に言い聞かせるんです」親の過保護を当然のことと思って育った子は、自分でも意識しないうちに、男に対しても過剰なやさしさを求めているものだ。その期待に応えるのは、男の側の打算である。これは真のやさしさではない。といつわりのやさしさを真のやさしさと思い込み、真のやさしさにはまったく気がつかない。これほど本人にとって不幸なことはないのである。遊びだからやさしくなれる女たちはよく、高い酒場で法外な金をふんだくられながらホステスに固まれてやにさがっている男を、「なんて、パカな。あのホステスたち、金のためにサービスしているだけなのに、心はちっともないのに」と批判する。ところがその男たちの多くは、ホステスたちが金のためにサービスしていることを心得ているのだ「昨夜はそテてねえ」などと言っているが、内心はそうではないことを知っている。つまり、みずから錯覚を楽しんでいるので、文字通りただのお遊びなのだ。そして運がよければ、ホ守ハテ九と恋愛ならぬ情事を行なうことができる。酒場遊びをする男たちを批判する女の側はどうか。プレイポlイのサービスを真のやさしさと思いちがいをしていながら、その錯覚に気がついていない。男が酒場で求めているのは「遊び」であり、ちょっとした休憩である。ところが、女がプレイポイに求めているのは「人生」なのである。これは大きな差である。戦後の一時期、若い女の男への第一条件は、「生活力」であった。時代を反映している。つぎの世代は、「誠実」となった。そして今は、「やさしさ」である。

世の中、平和がつづき、偽善が至るところにはこぴっている。すべての組織及び個人は多かれ少なかれ偽普性を帯びている。偽善性がなければ生きられないほど、社会全体が偽普に満ちている。表面のやさしさは、いわば偽善の最たるものである。それを第一に求めるとは、これもやはり時代のあらわれであろうか。女の戦い三角関係のもつれが多い@ある男がある女を好きになり、その女もその男を慕わしく思う。この一対一の関係ならおめでたい話だが、人聞は社会に生きていてつねに多くの人と接触があるので、第三の人聞が割込んで来る可能性はいつもあるのである。ニ角関係を泳ぐ男の本音二人の女が同時に一人の男を好きになる。同時ではなくても、前後して好きになる。はやめなさいその場合は、女同士が先輩後輩であろうと姉妹であろうと、対等のライバルである。「どうしてあんなつまらない男をめぐって女たちが争うのだろうか?」他にもっと良い男がゴマγといるのにと、他の男たちはうらやんだり不思議がったりするが、そんなことにかかわりなく本人たちにすれば必死である。ライバルがいるために、よけいにあたまに血が上ってしまっている。その結果、どちらかが相手を射止めることもある。どちらも失恋する場合がある。逆にどちらも一応は相手に可愛がられることに成功する例もある。どちらも失恋すれば、問題はない。うらみつこなしだ。双方失恋して、そのために女同士仲好くなった例も少なくない。同病相あわれむ心境である。そしてしだいに失恋の痛手は回復し、やがてあたらしい対象をみつける。問題は、どちらかが勝った場合である。当然、勝者はしあわせであり、敗者は不幸である。しかし、その恋の勝者は、かならずしも人生の勝者とはかぎらない。むしろ、しばしば逆の場合が多い。友人との女の戦いHに勝って恋人を得たのはいいが、その男に思わしい病気を伝染され、金品をまき上げられ、三回も妊娠中絶させられ、あげくの果てにトルコに売り飛ばされた。そんな女もいる。一方恋に敗れた女のほうは見合い結婚をして安定した家庭を築いている。ひとつの恋愛はマラソγにおける一定区間での先頭争いみたいなものだ。競争意識のために自分のベlスを乱しては、人生の勝者にはなれない。恋するとき人はよく、「これが自分の一生の恋だ」と思いたがる。じつはそうではない。恋愛はハシカみたいなものである。ハシカは一回しかかからないが、恋愛は何回もかかるのです。

今度のこの恋こそホンモノだ、と思い込む。そんなことはないね。どうせ人は錯覚と幻想に目がくらんで恋をするのだから、幻想が消えれば恋も消える。両方とも相手の男に可愛がられることに成功した場合、二人の女の争いはなおもつづくが、それは不幸のエスカレートに過ぎない。目先の勝負にこだわって大局的に物事を判断できなくなってしまっているのである。?その自信過剰が危ない恋人同士がここに存在していて、その関係のなかにもう一人の人聞が入って来る。三角関係の多くはこのようにして発生しているようである。ある青年を、ある女が好きになった。好きになったあとで、その青年には恋人がいることがわかった。ただちに自分の恋心を断つように努めるのが筋である。ところがしばしば、「よし、その女からこの人を奪ってやろう」そんなファイトを燃やす女がいる。その胸の底には、ハあの女より、あたしのほうがずっと上だわ〉という自信があるのだ。自信のない女にはそんなファイトは生じない。自信がつねに実力の反映だとはかぎらない。実力以上に自分を過信していることが多く、これは本人の性格による。彼女は積極的に男に接近する。その結果、その男と肉体的に結ぼれることに成功することが多い。男としては、出されたご馳走だからいただくのである。むかしから、「据陪食わぬは男の恥」と言っている。しかし、その男と肉体的に結ぼれたからといって、その恋人から男を怒ったことにはならない。統計をとったわけではないが、このようにして杭極的に男を誘ってそうなった女が最初の女から男をもぎとってしまう確率は、自分がただの遊び相手にされただけに終わる確皐よりも、これははるかに低い。恋人を持っている男をその恋人から奪って男にとって愛と肉体関係は完ものなのである自分が第一の恋人になるには、よほど条件に差がなければならない。男はあたらしい女に食指を動かしたがるものであるが、その反面、ずっとつづけてきた女との交流の歴史を重んじる側面を持つ。これまでぼくが見聞したドラマによって考えるに、恋人のある男を自分がもぎとってしまうための条件は、具体的にはつぎの通りであるようだ。前の恋人よりもはるかに多く金を持っていること。前の恋人よりもはるかに美貌であること、あるいは才知があること、それらを含めて女としての魅力に格段の差があること。たまたまその男と前の恋人との聞にトラブルが発生していることです。

自信過剰のために男と関係して、「彼女と別れてあたしといっしょになって」と男に迫り、「それはできない」男にことわられると、「じゃ、どうしてあたしを抱いたの?責任をとってちょうだい」顔色変えて食ってかかる。人を立てて談判する。ひどいのになると、男の恋人に会いに行って、自分と男との仲を暴露する。男にとってこんな始末の悪い女はいない。こんな女に引っかかった男は不幸だが、女自身もまた不幸である。結婚している男が愛人を作った。その場合、妥があたらしい女に会いに行って、「別れてちょうだい」と交渉するのが一般的な例である。ところが、いつか新聞に出ていた記事は逆であった。愛人が男の饗のところへ乗り込んで行ってその棄を刺殺したのである。これなど、おそらく男が、「女房と別れておまえと結婚する」などと調子のいいことを言っていたのであるうが、へんな話である。ニ人の男を愛せるか男二人に女一人の三角関係も、当然のことながらしばしば発生する。二人の男と親密に交際している若い女がいた。まだ二十歳である。いかに自分が巧妙に二人の男をあやつっているかをおもしろおかしく語る彼女に、ぼくはいくつかの質問を試みた。問どっちを好きなの?問両方とも、ほんとうに自分だけだと思っているのかな?答上手にやっているもの。そう信じているはずだわ。問どっち&結婚するの?ともしないのかも知れない。問うしろめたさをおぼえないかい?束していないわ、自由は確保しているの。答どっちとも、同じくらい。両方それぞれに良さがあって、甲乙つけられないの。答いやだあ、まだ、結婚なんて考えていない。どっちとするかわからないし、どっち答そうね、ちょっとうしろめたいわ。でも、あたし、どっちにも、操を立てるとは約同司』:回答パレたらどうする?そのときはそのとき。別れると言ったら、別れてもいいわ。問要するに、両方とも、愛してはいないんだ。ううん、愛しているわ、両方とも。男だってそうでしょう?ニ人の女を同時に愛することができるでしょう?それと同じことだわ。じて第三の男を作る気もあるわけだな?答今のところ、それはないの。でもすてきな人があらわれたら、どうなるかわからな、。いの問どっちといっしょのときが楽しいんだ答同じくらい。世の中、一人の恋人もいない女が多いのに、問答EV男を軽んじれば、女もまた男から軽んじられているゼイタクな話である。ある夜、彼女の男の一人と酒席をともにした。